2018年3月18日日曜日

180318

音楽を聴ながら、ときおり時間の感覚が、昔、本当に経験した記憶と、本当にあったのかよく分からないけれど鮮明に浮かぶイメージが交差して、頭がクラクラしたり、誰にも言えない恥ずかしい記憶を掘り当ててしまった時のように、バツの悪い気持ちになって1人で部屋にいながら声を上げてしまいそうになる。
高校時代は国分寺〜府中のあたりをぶらついていた。いままで全く本なんて読まなかった自分が、村上春樹『ノルウェイの森』を片手に文学少年ぶって、これまでに全く日本語のロックを意識していなかった自分が、はっぴいえんどの3rdをiPodに詰めて通学路を行き来していた。『ノルウェイの森』に、時折描かれていたと記憶している60年代だか70年代だかの国分寺の風景は、そのアパートの隅々まで知っているような気がしたし、はっぴいえんどの3rdは、初めて聴いたはずなのに、メロディとギターの音色を聴けば(これは誰かの音楽に似ているというわけではなく)、なんだか昔っから知っている音楽のような気がしてきた。いまでもはっぴいえんどの3rdは、聴く度にその時に本当にあったかは分からないけれど感じていた景色、その時に考えていた事が鮮明に、あるいは淡い色の水彩画のように浮かび上がり、意識もなんだか足が届かないプールを漂っているような気持ちになる。両親がはっぴいえんどを聴いていたわけではないし、3rdの楽曲がテレビで流れる事もないだろうから、本当にそんな気がするというだけの話しなのだと思う。失われた東京への郷愁を描く『風街ろまん』は、もっと客観的に、純粋な音楽として聴けるのだけれど、『Happy End』は、自分の中でそういった意味では純粋な音楽として耳に入る事はないと感じる。

さて、僕はいま完全にスランプに陥っている模様。書いても書いても全く良い曲が書けない。年齢や生活の焦りで、無心で音楽に向かうのが正直厳しくも感じる。ポップスを作るのは次が最後かなとも思っている。正直もう辛いけど、なぜまだ音楽を作りたいのだろうかといえば、きっと『Happy End』を聴いた10代の感覚が忘れられないのだと思う。なんて思っていた事を10年後にでも思い出してあまりの恥ずかしさに思わず声を上げていられますように。

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